院長 沖藤泰隆 プロフィール

生い立ち

私は、昭和40年6月に福山市引野町皿山で会社員の父母の間にひとりっ子として生まれました。
祖父母と一緒に暮らしており、家庭では『自由』が教育方針でした。
そのためか、私にとって両親とは父母というよりも兄弟という印象が強かったように思います。
叱られた記憶もあまりなく、自由に育ちました。
そのイメージは大人なった今でも変わりません。

私の生まれ育った街には日本鋼管(現JFE)の大きな工場がありました。
その当時、街の夜空は工場の明かりに照らされていつも明るく真っ赤、昼間は煙で曇っているという印象で、子供心にまさに工場の街だと思った記憶があります。
父が言うには、工場ができるまでは家の前は静かな海水浴場で、サザエを採って遊んでいたそうなのですが、幼い私の目の前には小さな川と巨大な工場があるだけで想像もつきませんでした。

当時、自宅の裏手には山があり、そこにはたくさんの団地と私が通った小学校がありました。
小学校は全学年が5クラス45人ととても大きなものでしたが、それでも子供が増え続けるため、卒業するまでの6年間で3校が新設されました。
街は活気に溢れていました。
私は友達と一緒に弁当を持って裏のみかん山に登り、走り回って遊ぶのが日課でした。
そこからはとてつもなく巨大な日本鋼管の工場とたくさんの煙突と煙、その向こうに瀬戸内の島々と青い海、青い空が見え、その美しいコントラストに感動し、同時に自分の将来に大志を抱いていました(飛躍しすぎました。子供ですから、そこまではまだ…)。

そんな私ですが、子供時代は周囲から常に『おとなしい子』と言われ続けていました。
しかし、小学校高学年になって担任の先生が本来の性格を引きだしてくださったこともあり、放送部、児童会、バドミントン部と様々な活動に参加していきました。
自然と人前で話す機会も多くなり、活発な子供に変わっていき、とても有意義な小学生生活を過ごすことができました。

中学生の頃

小学校を卒業後、すぐに神辺に引越しをしました。
神辺中学校に入学したのですが、ここも大きな学校で1学年に12クラスもあり、卒業するまでの3年間で話したことのない人が大勢いるほどでした。
同級生はそれぞれに小学校からの友達が大勢いたのですが、私は1500人の中でたった一人。
またおとなしい子供に戻ってしまいます。
クラブ活動は科学部と放送部に入りましたが、正直なところ活動に打ち込んだという感じではありませんでした。

あの頃、世の中はフォークブームでした。
音楽が好きだった私もアリスや松山千春をよく聴き、フォークギターを買ってもらってからは弾いたり歌ったりの毎日です。
そんなある日、松山千春が福山市民会館にやってきます。
生まれて初めてプロミュージシャンによるコンサートを見たのです。
当時の私にとっては黒船来航と同じくらいの衝撃でした。
その時の感動は今も忘れることができず、また、それを超えるものもありません。
きっと、中学2年生という何でも素直に吸収できる多感な時期だったからという事もあったのでしょう。
それ以来音楽は私の一番の趣味となりました。

その後、ビートルズやチープトリックといった洋楽に目覚め、エレキギターを買ってもらいました。
そして中学3年生の時にクラスの友達とバンドを組み、地元の公民館でコンサートを開きます。
満員盛況、大成功に終わるはずだったのですが、実際にはしっかり練習しなかったために1曲としてまともに演奏できなかった上、一緒に出たもう一つのバンドがきちんと演奏できていたのを見てひどく落ち込む結果となったのでした。
今も私にとっては苦い思い出なのですが、同時に大切なことを学ぶ機会でもありました。

独りよがりではいけない。
お客さんがいる以上、お客さんを喜ばせなければいけないし、満足してもらわなくてはならない。
その結果として自分も満足し、喜びを感じられる。
お客さんと感動を共有することができる。


この時学んだことが現在の私の仕事に対する理念にもつながっています。
もちろん中学生だった私がそこまで深く考えていたはずもありませんが…。

この頃、テレビでは『兼高かおる世界の旅』という番組が放送されており、世界の国々に強い興味を持っていた私は小学生の頃から欠かさず見ていました。
様々な国が紹介されていましたが、私にはアメリカ合衆国が特に魅力的に見えました。
しかし、当時は1ドル360円の時代です。
現在のように気軽に海外旅行に行くような人は私の周囲にはいませんでした。
そんなわけで、私にとっては世界地図を眺めながら空想を広げるのが大きな楽しみでした。
中学生になってから英語塾に通い始めたのですが、これも憧れの外国につながる方法の一つと考えていたのかもしれません。
そんな私の将来の夢が、パイロットになって世界中の国へ行くことだったのも自然な流れといえるでしょう。
結構本気で考えており、高校生の頃には航空大学校の資料を集めたりしていました。
ある時、英語塾の先生が私に1冊の本をくれました。
『医学部へ行く』というタイトルの本。
人生というのは面白いもので、これをきっかけに将来の進路が大きく方向転換することになったのです。

高校生の頃

中学校を卒業後、広島県立府中高校に入学しました。
実は中学校での進路指導の際に志望理由を『電車に乗って通学したいから』と言って先生に怒られたのですが、もちろん本当にその理由だけというわけではありません。
入学してからの生活はまるでテレビの学園ドラマのようで、自分でも地に足がついていないと感じることもしばしばでしたが、とにかく楽しい毎日でした。
とても自由な校風で生徒を束縛する規則はありませんでしたが、生徒一人一人が自主性と自制心を持ってするべきことはきちんとするという雰囲気の学校でした。
この頃になるとすっかり音楽好きが高じて聴くだけではなく演奏することに強い興味を持つようになっており、『音楽をやるならまずは楽譜を読めなくては!』という思いのもとに音楽部(オーケストラ)に入部しました。
担当はコントラバス。
入部してからの練習は本当に厳しいもので、暗いうちから始発電車に乗って朝練に参加し、昼練、夜練まであってほとんど1日中練習漬けの毎日でした。
高校生活のほとんどがクラブ活動だったといっても過言ではないと思います。
部内は女性が多く、高校の部活といっても当たり前のように女性社会が形成されていました。
さらに、上下関係や礼儀、挨拶に非常に厳しく、それまで私が過ごしてきた環境とはまるきり違う世界でした。
たった1学年が上というだけでも先輩は絶対。
そこに性別は関係ありませんでした。
その当時は理不尽に感じたり強く反発したりすることもありましたが、今になって思えばこの時の経験がその後の私の人生において非常に役立っていることもまた事実なのです。
厳しい練習に耐えて全国大会出場も果たし、本当に良い経験でした。
また苦しい事ばかりだったわけではなく、この時クラブで同級生として一緒に活動していた女の子と後に結婚することになるのです。
バンド活動も相変わらず続けており、文化祭に出たり弾き語りをすることもありました。

音楽に没頭する一方で、高校では新たな趣味も見つけました。
2年生の正月に、友達と二人で郵便局でアルバイトをしました。
その時に貯めたお金で夏休みに2週間の北海道旅行をしたのです。
夜行列車を乗り継ぎ、宿泊はユースホステルか列車の中という気ままな旅です。
自分達以外にも同じような旅行者がたくさんいましたが、ほとんどが大学生や社会人の方ばかりで高校生だった私たちは大変親切にしていただきました。
北海道を満喫し、旅行者の心のあたたかさに触れた旅はとても思い出深く、大学生になってからはバックパッカーとして海外を旅するきっかけとなったのでした。

大学時代

高校卒業後、地元の英数学館という予備校で1年間浪人していました。
予備校には高校の同級生が何人もいて、実家から通っていたこともあり何だか高校の延長という感じでした。
おかげで過度なプレッシャーに悩まされることはなかったのですが、のんびりした雰囲気に安心してしまっていました。
次第に両親に対して申し訳ないという思いが芽生え、勉強に集中するようになりました。
英数学館にはまさに受験のプロというようなすばらしい先生方がたくさんいて、1年間しっかり指導していただいた結果、長崎大学の歯学部に入学できました。

親元を離れ、長崎での新生活が始まります。
長崎は思っていた以上に良いところでした。
人は良いし、食べ物はうまい。
中華にカステラ、海が近いので魚もうまい。
九州名産の焼酎も堪能しました。

大学では歯科医師になるための勉強以外にも、医歯系軽音楽部に入部してバンド活動に打ち込みました。
バンド仲間と音楽について語り合い、一緒に酒を飲んで友情を深めていきました。
本当に充実した毎日でした。
この頃日本はバブルの絶頂期にあり、学生といっても皆自分の自動車に乗り、良い服を着ていました。
今と比べたら破格のアルバイトもたくさんあり、私もずいぶん精を出しました。
コンサートの設営、ビヤガーデンのバンド演奏、ちゃんぽん屋の『リンガーハット』などなど。
この時の経験のおかげで今でもちゃんぽん作りには自信があり、中華の鍋振りなどはちょっとした特技です。
また、海が好きな私は船舶1級の免許を取得し、夏の間は長崎のリゾートホテルでボートやヨットのクルージング、ジェットスキーやウィンドサーフィンのインストラクターをしていました。
学年が上がるにつれて授業や実習が忙しくなり、アルバイトの内容も家庭教師や塾の講師が中心になっていきましたが、これらもまた貴重な経験だったと思います。
このような学校での勉強以外での経験…たとえば飲食の接客で覚えた笑顔や挨拶、クラブでの上下関係などは、現在の歯科医師としての私のあり方、患者様に対するときの姿勢の根幹を作ったとも言えるでしょう。
患者様の目を見て、笑顔で明るく挨拶する。
心から患者様を喜ばせたいと思うホスピタリティ。
どれも歯科医療にたずさわる者として本当に大切なものだと思います。

大学時代の私には、音楽以外にもう一つ大きな楽しみがありました。
海外旅行です。
ただしそれは、ツアーに参加して何もかもお膳立てされたコースを回るようなものではなく、リュックに必要な物を詰め込んで、往復航空券だけを持って旅に出るバックパッカーです。
宿泊は現地に到着してから探すので、いつも小さな安宿かユースホステルです。
初めての一人旅は、子供の頃に憧れたアメリカでした。
冬に2か月間、たった一人で旅に出ました。
大雪のニューヨーク、フロリダの海で泳いでロサンゼルスでは春を感じる。
一つの国の中で四季が異なる、アメリカという国の広大さを実感した旅でした。
自由気ままな旅はとても楽しく、その後もヨーロッパやアフリカ、オーストラリアなどをそれぞれ1か月以上かけて旅をしました。
若さゆえだったのか今思えばかなり無謀な旅ではありましたが、それまでテレビや本でしか目にしたことのなかった物を五感で感じられる事、また、何よりも人との出会いが楽しかった。
そして自由気ままな旅に付き物のトラブルで辛い目にも遭ったし怖い思いもしましたが、おかげでどこででも生きていける自信が付きました。

勤務医の頃

長崎大学を卒業後、地元福山に戻り、瀬戸町の檀上歯科という歯科医院に勤務することになりました。
檀上歯科は毎日大勢の患者さんが来院される医院で、非常に多くの症例を経験することができました。
治療内容も多岐にわたり、虫歯や歯周病治療、入れ歯、インプラント、歯列矯正、審美歯科治療など毎日が勉強の日々でした。
院長である檀上先生は卒業直後で何もできない私に歯科医業を一から教えてくださった先生で、今の私があるのも先生のおかげと言っても過言ではありません。
今も檀上先生は私にとって一番の師匠です。
檀上先生からは歯科医師としての技術だけでなく、沢山の大切な事を教えていただきました。
大学での勉強が大切であることは勿論ですが、それだけでは歯科医師たりえることはない。
歯科医師である限り日々努力し、新しい知識と技術を身につけていくことは義務である。
今も大切な先生からの教えです。
檀上先生にご指導いただく中、時には辛い事もありましたが、その全てが現在の糧となっていると思います。
そんな檀上先生ですが、厳しいばかりではなく、プライベートではヨットが趣味というとても楽しい先生でもありました。
休日にはクルージングに連れて行っていただき、長い休みには遠方へのレースに一緒に出かけました。
瀬戸内海を渡って別府へ行ったり、日本海を渡って釜山~福岡間のオーシャンレースに参加したりしました。
多方面へ出かけましたが、中でも日本海の荒波は凄まじいもので時には10メートルもの高低差になることもあり、非常に過酷な船旅に死ぬんじゃないかと思うこともしばしばでした。
しかし、レースやクルージングが終われば不思議とまた行きたくなるもので、これは生来の冒険好きな性格によるものかもしれません。
また、地元の多くのヨットマンの先輩方と知り合い、非常に大らかで陽気な海の男たちと海の上でお酒を酌み交わし、楽しく語り合ったのも良い思い出です。

檀上歯科に勤め始めて4年後、檀上先生が急逝され、あとを継ぐ形でそれから6年間、合わせて10年間を檀上歯科でお世話になりました。

そして2001年、当地神辺におきとう歯科クリニックを開業し、現在に至ります。

無料メール相談・お問い合わせ

お名前 ※必須
性別 女性 男性
年齢
郵便番号 記入例:7202125(ハイフン無し)
ご住所
電話番号
メールアドレス ※必須
コメント

    診療時間

    月~土
    AM9:00-12:15 PM14:30-19:00
    休診日:日曜・祝日

    ご予約・お問い合わせ
    0120-391-852
    084-962-5511

  • 当院への地図

トリートメントコーディネーター 今岡の技工所見学